韓国メディアが報じた「南米摂理」(前編)

“共同体理想” モデル建設のブラジル・ジャルジン

 韓国統一教会(世界平和統一家庭連合)創立60周年に際し、韓国メディアが南米のブラジル、ウルグアイ、パラグアイを訪れ、真の父母様(文鮮明師ご夫妻)が過去20年にわたって投入してこられた摂理の中心地を取材し、主要な雑誌などで報道されました。韓国メディアが南米摂理をどのように報じたのか、「地球の反対側で新たに注目される『新しい希望農場』の奇跡」と題して「月刊中央」6月号に掲載された記事の要約を2回に分けて紹介します。

(この記事は、『VISION 2020』第32号〈6月30日号〉に掲載されました)

「サンパウロ宣言」から20年
 ブラジル・ジャルジンの「新しい希望農場(ニューホープファーム)」が、現地で新たに注目されている。今年は文鮮明・韓鶴子世界平和統一家庭連合総裁が、ここに農場を建ててエデン共同体構想を提示してから20年目となる年だ。世界平和統一家庭連合(以下、家庭連合)の歴史において、南米は核心中の核心である。

 文総裁は1995年3月31日、ブラジルのサンパウロで、それまで共に歩んできた40年公式路程を締めくくり、第2次40年路程の出発を知らせる「サンパウロ宣言」を発表した。文総裁夫妻は、「サンパウロ宣言」を通して「南米で理想村と理想的な国家のモデルを造る事業を始めることになった意味は非常に大きい」と強調した。

 文総裁夫妻は、同年5月1日、ブラジルのジャルジンに設立した「新しい希望農場」を中心に3億坪、パラグアイに2億坪、ウルグアイとアルゼンチンに1億坪など、合計6億坪の土地を購入し、理想村を建てるという計画を発表した。各国の青年を投入し、160の国別に分けて開発するというこのプロジェクトは、国境・民族・宗教・言語など、すべての障壁を超越した理想共同体モデルを建設しようという野心溢れた計画のもと、推進された。

 ジャルジンと隣接したパンタナールは、全世界で最も大きな湿地であり、太古の神秘がそのまま保存されている所である。ユネスコの世界自然遺産に指定されたパンタナールは、全体面積238万2800㎢のうち、145万400㎢がブラジルに属しており、残りはボリビアとパラグアイにまたがっている。

 文総裁夫妻がジャルジンを初めて訪れたのは1994年12月8日のことだった。この時、パンタナールで釣りをしながら、「新しい希望農場」の敷地を購入したという。翌年の95年3月11日、ジャルジンを再び訪問した文総裁夫妻は、「サンパウロ宣言」を発表したのに続き、4月3日には160カ国を代表する指導者の前で、「新しい希望農場宣言」を通して、次のように発表した。

 「新しい希望農場は、正にその実践のための訓練場である。投入し、また投入しながら、土地と水と自然を愛し、万国の人が1カ所に交わり、同じ兄弟となる実践道場である。ここで成果を収め、万民に見せてあげることにより、人類が皮膚の色と文化と国家を超越し、どのようにして愛の共同体を築くかということを教育するだろう。また、戦争と飢饉と犯罪をなくし、人類が平和に暮らしていけるモデルをここで見せてあげるだろう」

 文総裁夫妻は98年7月1日、ジャルジンに「世界平和理想家庭教育本部」を設立し、共同体理想を実現する役軍(担い手)を全世界から呼び集め、40日間、集中的に教育を実施した。そして、(彼らに)新しい希望農場で共同体生活を体験させたのである。

荒涼とした大地を沃土に変える-パラグアイ・レダ
 文総裁夫妻が南米に滞在しながら、ジャルジンに続いて大きな精誠を注いだ所がチャコ地域である。チャコは、ボリビア・パラグアイ・アルゼンチンにまたがっているグラン・チャコ地域の一部で、面積は約25万㎢(750億坪)に達する。パラグアイの国土の60%を占める捨てられた地、チャコで、文総裁は住民に魚を釣る方法を教え、学校を建てて子供たちを教育した。ここはあまりにも荒れ果て、あまりにも広く、あまりにも原始的で、多くの人手が必要だった。

 文総裁夫妻は1999年8月、日本の宣教師をここに呼び集め、9月の初めまでに102人がチャコに到着した。彼らは息をつく間もなくプエルト・レダに行き、農場を開拓した。レダは、チャコにおいても人が暮らすのに最も大変な場所として挙げられていた。

 レダのすぐ横にはパラグアイ川が流れ、その横は牛を育てる牧草地だった。しかし、何回も洪水に見舞われてひどく損傷し、やがて捨てられた地として荒涼たる姿のまま残されることになる。ごく少数の住民だけがそこで貧しい生活をつないでいた。商店や官公署などは全くない所だった。道路は荒廃して、自動車はもちろん、人さえもまともに通ることができず、船を利用しなければならなかった。人々は川の水を汲んで飲み水に使用した。電気と電話さえない所だった。それこそ、原始そのままの姿だったのである。レダ・プロジェクトは、このような状況から始まった。

 日本の宣教師が初めて滞在した所は、劣悪な環境の宿所だった。あまりにも古くて、雨が降ると天井から雨水がぽたぽたとこぼれ落ちた。それだけではない。蚊・毒蟻・毒蛇などが溢れるほどおり、あらゆる昆虫が飛びかかってきた。宣教師たちは摂氏40度を上がり下がりする天候でも、汗をだくだく流しながら働いた。あまりにも暑くて耐えられない時は、川に飛び込んで体を冷やした。

 そのように一日一日が過ぎていくに連れ、家々が徐々に完成し、船をつけることのできる停泊地も造られた。少しずつ、基礎的な生活環境を改善していったのである。毎日死闘の連続だったが、彼らは汚染されていないきれいな自然に囲まれて、苦労しながら労働をする楽しみを味わった。

 彼らはただ建物を造り、道を開くだけにとどまらず、オリンポとエスペランサ村にある多くの学校を支援した。貧しい子供たちが心置きなく勉強できる環境をつくってあげたのである。文総裁夫妻がここに多くの精誠を注いだのは、理想村を造るためだった。

 このように、文総裁はレダを中心に理想村建設を一つ、二つと具体化してきた。第一段階として、ここに農場を建て、未来の人類のための資源開発と理想共同体の建設をすることを提案した。そうして、プエルト・レダに8万ヘクタールの土地を購入し、開発を始めたのである。
 そして、レダを中心にモデル農場とモデル水産事業施設を造り、自然と和合した文化都市造りを計画した。まず、19のインディオ部族が暮らす村に広場を造り、病院、学校、その次に運動ができる体育館などに代わる総合センターを建立する計画も樹立した。文総裁は、未来において世界文化時代が到来すると考え、それを直接ここで実現しようとしたのである。

 レダの開拓に参加した日本人・中田実氏は、文総裁が当時、責任者に次のような願いを託したことを紹介した。
 「私たちがプエルト・レダを初めて訪問した時、文総裁は『今から、日本に帰ることを考えてはならない。君のために準備された所に行って暮らしなさい』と非常に明確に語りました。レダ・プロジェクトが進められて3カ月目となる2000年1月7日、日本人宣教師たちが文総裁のもとを訪ねたのですが、(文総裁は)私たちのために直接、昼食を準備してくれました。日本の宣教師は、パラグアイに警察本部や政府庁舎を建て、寄贈したりもしました。文総裁は地方の公務員に会い、『見ていなさい。近い未来に、全世界の人々がここを訪ねるだろう』と語っていました」

 後編はこちら