私の出会った文先生 ~先駆的“日韓家庭”の一人娘として愛された人生~

末永喜久子(777双)

 私は1944 年、“一代前の日韓家庭”(両親)の一人娘として、中国山西省で生まれました。日本の軍人だった父が満州で負傷した時に、看護婦をしていた韓国人の母から輸血されて助かったのが縁でした。母は大東亜共栄圏の理想に燃え、単身満州に渡っていました。

 その後中国に移動したのですが、父は私が生まれる前に捕虜としてソ連に連行されてしまいました。母は終戦後、一歳の私を背負って命からがら韓国のソウルに辿りつきました。

 私は一人っ子で、小学校の頃には毎週教会学校に通いました。やがて韓国動乱が勃発し、生きるか死ぬかの毎日でした。同年代の真のお母様(韓鶴子総裁)が大母様と共に歩まれた、その心情がとてもよく共感できます。

 数年たって、ソ連に抑留された父が仙台に戻っていること、しかも別の家庭を持っていることが分かりました。母は「父親の顔を一度も見たことがない子供にしたくない」と考え、日本に移住することにしました。

 福岡の門司港から仙台に向かう汽車の中で運命的な出会いがありました。たまたま向かいに座った男性が在日の方で、身寄りのない母娘に東京の韓国学校の校長を紹介してくれました。不思議なことに、校長の息子さんが後に渋谷民団の支団長になられるのですが、その方の後任になんと私の主人が就任したのです。また、汽車で出会った方は民団本部の団長になられ、今でも交流が続いています。

 私が伝道されたのは、1968 年早稲田大学卒業後、就職した旅行会社にいた食口(教会員)からでした。原理講義は聖書の疑問に見事に答えてくれ、ホームの青年たちは「お帰りなさい」と私をいつも家族のように温かく迎えてくれました。母も続いて伝道されました。母は「祝福」の前に、お父様(文鮮明師)に「娘の結婚お願いします」と直接頼んだそうです。このことは『天聖經』の中でも触れられています。そのおかげなのか、後にお父様はすばらしい在日の夫を選んで下さいました。

 初めてお父様に“お会い”できたのは1969 年、旧松濤本部でした。まだ狭かった本部は食口たちであふれていて、洗濯物を干すベランダまで一杯でした。ベランダの欄干に登った私は、まるで聖書の中の背の低いザアカイのようでした。残念ながらお姿は拝見できませんでしたが、その時は生きたイエス様と同じ場にいること自体が信じられず、とにかく嬉しくて興奮したのを覚えています。

 私は通訳ができることもあって、父母様からも、子女様からも愛されてきましたし、み旨の中で特に苦労した思いもありません。今にして思うのは、両親が“日韓家庭”として、特に母が「蕩減」をすべて清算してくれたおかげだと感謝の思いで一杯です。