真の父母様ご来日と聖地決定50周年(後編)

「日本を愛しなさい、先生以上に愛しなさい」

 本年1月28日(陽暦)で、真の父母様のご来日50周年を迎えました。1960年にご聖婚式を挙げられ、真の父母として初めて来日された記念すべき日です。(前編はこちら)

名古屋は「天宙における最も古い名高い家」
 2月1日午後1時、新幹線ひかり号で真の父母様ご一行は東京を出発し、午後3時30分に名古屋駅に到着されました。名古屋城、テレビ塔等をご見学になり、4時半頃、名古屋教会へご到着。歓迎会では3時間半にわたるお父様のみ言がありました。

 お父様は、「東京は東の都、つまり神の創造の始めの国、エデンの都を指しているが、名古屋は一番古い家、つまり天宙における最も古い名高い家。それはアダムの家を象徴しており、古い故郷を思い出させる」と語られました。
 夕食後は和動の時間を持たれ、皆時間の経つのも忘れ、お父様がお休みになられたのは、明くる朝の4時近くでした。

3. 名古屋の聖地を決定される真のお父様(65年2月2日) 2日は陰暦の1月1日午前5時に敬礼の儀式が行われました。聖地はその朝、東山公園内の高台に決定され、聖別式を行い、教会に戻られた後、正午近くから、食口たちを前にいろいろとお話しされたり質問を受けたりされました。

「大阪は皆が一つの家族」という感じが強いところ
 名古屋を発たれた真の父母様ご一行は、午後7時に大阪教会に到着され歓迎会が持たれました。お父様はみ言の中で、「東京は、東のエデンの園を表し、名古屋は、名高い古い屋敷を表し、ここ大阪は、大きな峠を思わせます。ゆえに、大阪の地は、勝敗を決する十字架の峠であり、この地の復帰が、日本あるいは世界の栄光の峠になることを願います」と、土地の因縁を述べられ、「大阪は皆が一つの家族という感じが強いところです。神を中心として、心情がつながれていれば、国境も何も問題ではない。先生は、日本人である。日本を真に愛する者が、真の日本人であり、世界を、天宙を愛する者は、世界人であり、天地に公認される者となることができる」と語られました。

大阪城内にて(65年2月3日) その後「茨なる道の復帰路程」と題して、3時間余りにわたってお話しされ、午後11時半、ようやく食卓につかれました。
 2月3日、お父様は大阪城内に大阪の聖地を決定されました。

高松で地方における伝道の心構えを語られる
 真の父母様ご一行が、高松教会に到着されたのは2月3日午後10時。到着後すぐにみ言を語られ、「過去の人のできなかった、より以上の蕩減を克服してこそ勝利することができる」と強調され、地方における伝道の心構え等について、約2時間にわたってお話しされました。4日午前1時に、宿泊される旅館に向かわれました。

 4日は朝食をとられながら真のお父様を囲んでの和動会、質問会が始まりました。その後、屋島に向かい、瀬戸内海を一望することができる屋島山頂の屋島公園内の雑木林の一角に聖地を決定されました。

広島の大本営跡に聖地を決定
10. 広島教会にて(65年2月5日) 2月4日午後8時ごろに広島に到着された真の父母様ご一行は、市内の中心部を通って教会に着かれ、「勝利の歌」の合唱の中、部屋に上がり講話を始められました。

 お父様は「30億人類は歴史的心情、イエスの内的心情、十字架の内外共の心情を全体的に知って心情的蕩減の基準を地上に決定させ、神を慰め、あなたを見てすべての苦労を忘れ、あなたがいるから新しい希望、新しい勇気を持つことができるところまで行かなくてはならない」と語られました。お休みになられたのは翌日の午前3時過ぎでした。
 5日は朝食の後、質問および和動会を終えて出発され、広島城跡(大本営跡)に聖地を決定されました。

福岡の地が、神が誉めたたえる故郷の一角となるように
12. 福岡教会にて(65年2月5日) 5日午後8時ごろに福岡教会に到着された真のお父様は、休憩の時間も惜しまれ、すぐに「行きたいところ、会いたい人、住みたいところ」と題し、み言を語り始められました。
 お父様は、「この地が、神が誉めたたえる故郷の一角となるように、どうぞよろしく。そうするには君たちの汗と血と涙が限りなく流されなければならない。そして福岡は地が良い。祝福を受けた。…国家建設の時には重大なる功労功績を残した地名を汚すな。本部を東京より福岡に置くのを願っているかもしれない。伝統を作れ。皆、東京に来い」と語られました。

 6日は聖地決定のため西公園に向かわれ、片手に市内全域を見下ろし、片手に博多湾を望む公園内の地を聖地に定められました。

日本でご父母様と共にご聖誕日を祝賀
 1965年陰暦1月6日(陽暦2月7日)午前零時、本部教会2階において真のお父様を中心に祈祷会が持たれた後、1階の礼拝堂で敬礼式、真のお父様の祈祷とみ言があり、3時に閉会となりました。
 この日行われた聖日礼拝で、真のお父様は「我々は中心を求めて一つになろう」という題目で4時間にわたり、み言を語られました。

 午後8時から行われた和動会では、1メートルもあるバースデー・ケーキにお父様はナイフを入れられ、続いて食口たちはそれぞれ芸を披露。真のお父様のみ言が2時間ほどあり、午前3時半過ぎにご聖誕を祝う場は幕を閉じました。

ご聖誕日に寄せられた真のお母様のお手紙(翻訳:崔元福先生)
 「愛する日本の皆様へ
 皆様はいかに待ちに待ちこがれたことでしょうか。幸福とあこがれの日でございます。各々が、よろずの心で想像してお待ち申し上げた実体の父が…。あなた方の夢は実現したのでございます。

 皆様、たったひとつ遺憾なことは、席を同じくして、この喜びの日を過ごすことができないのが、残念でなりません。
 愛する皆様、御父様にお目にかかれて、いかがですか。喜ばしく…、それとも、隔たりを感じておりませんか。

 でも急がないで。心、生命の問題ですから、心から心情を、そして皆様の目を開いて下さることでしょう。悔いることなく、侍り慕う生活のうちに、御父様の心情の懐にたどり入りますように。
 御父様がどんなことをお話しになっても、それは皆様を生かす父母の心情でございます。皆様は、心を尽くして父と共にあり、御旨成るその日まで健闘し、勝利の一日まで、天と地と人類が待ち望むその日を迎えるまで猛進しようではありませんか。両手を広げて、御父様は育んで下さることでしょう。

 望み望んだこの日、この歓喜法悦は、今は私たちだけですけれど、これを万民に伝える日まで落ちることなく、最後まで猛進に猛進を続けましょう」

北海道神宮の純白の雪の中で聖地を決定
15. 札幌教会にて(65年2月8日) 真の父母様ご一行は2月8日午後2時10分、北海道千歳空港にお着きになり、札幌教会では、釧路、帯広の兄姉と共に15人が集まり、お父様をお迎えしました。夕方4時頃、北海道神宮に行き、真のお父様が腰まである雪の中を先頭に立って掻き分けられ、純白の雪の中で聖地を決定されました。

 夕食後、お父様は、「私たちは日本に立つ使命感を強くしなければならず、天を代表して立つ者には自己的な平安は決して許されない。神の願いは体験しなければわからない。…神の心情の中に生きる者となれ!」と力強く語られました。深夜2時まで続いた和動会では親しみ深い雰囲気の中で、お父様は一人一人と握手をされました。

仙台で青葉城内に聖地を決定
 17. 仙台教会の食口たちと共に(65年2月10日)9日は早朝6時半、教会を出発され、7時15分の汽車で仙台に向かわれました。深夜に仙台に到着されたお父様は、10日午前1時40分から『神と逢う所』と題し、み言を2時間にわたって語られ、午前4時になって床に就かれました。

 翌日、お父様ご一行は青葉山に向かわれ、青葉城内に聖地を決められ、仙台発の飛行機で羽田に向かわれました。

本部教会で歓送会
 2月11日午後9時より、本部教会で真のお父様ご一行の歓送会が行われました。お父様は「万民に必要とされる者となろう」と題し、「日本的以上でなければ、神は必要としない。君たちは日本人に違いないけれども、日本人の中の日本的では必要としない。…30億人類を神は必要とする。本当の日本人として、最高の価値ある位置に立ち得る日本人として認められるか、それを反省しなくてはならない。…これ以上の愛をもって日本を愛したものはないという男が現れるなら、過去・現在・未来を押し分け、その愛する心は歴史的であり、世界的であり、天宙的であるという自信を持ちなさい。その人は神を占領する」と語られました。

米国へ出発
 1965年2月12日午前10時、真の父母様ご一行は、羽田空港から、米国サンフランシスコに向かわれました。空港では約150人の食口が聖歌を合唱、タラップを昇られたお父様は、見送りデッキにいる食口たちに向かって大きく手を振られて搭乗、日本を発たれました。

ご来日後は飛躍的に伝道が発展
 真の父母様の初めてのご来日後の1965年8月23日、本部教会は渋谷区南平台から現在の松涛町1- 1-2に移転。日本統一教会の初期の基盤を築いた崔奉春宣教師は米国での宣教のため、同年11月12日に日本を発ち、渡米しました。
 そして真の父母様のご来日前は数百人であった信徒の数は、ご来日後は飛躍的に伝道がすすみ、わずか数年のうちに数千人に増えたのでした。真の父母様ご来日50周年を迎えた私たちは、草創期の先輩の努力に負けない精誠を捧げて、さらなる飛躍・発展を遂げて参りましょう。