天一国特別宣教師 飯野貞夫
1973 年1月1日、主に米国やヨーロッパのメンバーによるIOWC(国際統一十字軍)が編成され、日本にもやってきました。40 人が1 チームとなって、各地で伝道の渦を巻き起こしていったのです。
1975 年8 月、ヘンドリック・ダイク団長(オランダ人)率いるIOWCの一団が船で北海道にやってきました。私たちは苫小牧港まで彼らを迎えに行き、大歓迎しました。
ところが彼らは、その前の任地で人間関係がうまくいかず、勝利できなかったということで、意気消沈していたのです。そこで私たちは、港から車で1時間ほどの支笏 湖(千歳市)に彼らを連れて行きました。そして青い空の下、美しい湖畔でバーベキューをして、もてなしたのです。
こうして大自然に抱かれているうちに、彼らのふさいでいた心が、徐々に解放されていきました。ギターを弾きながら、皆で明るく歌い合う中で盛り上がっていったのです。北海道の自然は本州とは全く違います。ウエスタンのメンバーは、ふるさとである米国やヨーロッパを思い出して復興し、もう一度
やる気を出してくれたのです。
彼らを迎えるに当たって、私は40 人全員と帯同伝道ができるように、人数をそろえておかなければならないと思いました。それで、地区長とも協力し合い、皆で必死になって伝道に取り組み、数か月で40 人を伝道することができたのです。
こうして協力態勢が整う中で迎えたIOWCのメンバーと共に、伝道活動が始まりました。札幌の大通公園の大掃除など、奉仕活動にも力を注ぎました。当時はウエスタンというだけで珍しい時代ですから、市民の注目を集めました。
そのときはちょうど、妻が2 番目の子供を妊娠しており、出産予定日は9 月18 日でした。そこでダイク団長の発案で、9 月18 日を最終日とする40 日路程を組み、最終日に札幌で伝道大会を開くことにしたのです。十字軍、ウエスタン、そして北海道のメンバーが一つとなって伝道に邁進した結果、9 月18 日の大会には1000 人が集まり、大成功となりました。
そこから修練会につながる人、受講する人などが出てきて、結果的に120 人を伝道することができたのです。当時の北海道の基盤を考えると、考えられないような勝利でした。
IOWCのメンバーは、18 日の伝道大会を終えると次の任地に移動することになっていました。ところがわが家の第二子は、予定日になっても生まれてきませんでした。ダイク団長は、「私たちは飯野家に生まれてくる赤ちゃんから運勢を頂いた。だからその顔を見ずしてはこの地を去れない」と言って、次の任地と交渉して、出発を延ばしてもらったのです。このように待ち望まれたわが家の第二子は、21 日に無事に生まれてきました。これが次女です。
こうして、次女の顔を見たダイク団長をはじめとするIOWCのメンバーは、心から喜び、安心してくれました。そして勇躍、次の任地へと出発していったのです。